
1983年、江南市の片田舎に、2人姉妹の長女として生まれます。小学校時代は自由奔放、勉強なんてしないで、授業中はずっと後ろの席の友達に話しかけているような子でした。
しかし、中学に上がるころ、「私は、中学には一緒に行けない」と中学受験をした女の子のことが妙に気になってしまい、「私もちゃんと勉強しよう」と、中学からは勉強ばかりしていました。
そして、どの高校に行こうかと考えているときに、出会ったのが薬剤師の仕事です。
そこからはその目標に向かってがむしゃらに頑張りました。
実は、私は高校受験も大学受験も推薦をもらったので、純粋な受験をしたことがありません。
子供に受験のことを聞かれると、私も知らないことばかりなので、親子で手探りでやっています。
経験がないので案の定、初めての受験と言ってもいい薬剤師の国家資格試験では、1度目は落ちてしまいました。
そして、一年、もう一度勉強をし直して、合格。
最終的には、合格するポテンシャルがあっても、ちゃんと試験に向き合わないと、落ちるのだと、子供達には伝えています。
薬局に就職してからは、普通の薬剤師として働き、結婚。
結婚を機に仕事を辞め、主人の海外赴任(タイのバンコク)についていきました。
バンコクでは、日本人がほとんど乗らない市バスに乗ってみたり、家から5駅ほどの距離を徒歩で歩いてみたりと、刺激的な経験がたくさんできました。
それまで、英語は少し勉強していましたが、タイ語は全くわからず。
二冊ほど購入した「初心者向けタイ語」という本で学んだ、付け焼き刃なタイ語を、外出しては試してみるという方法で学びました。
しかし、下の息子も生まれて幸せの絶頂期に、主人が病気になってしまいます。
バンコクの大きな病院で、タイ語を話す医師から告げられたのは、「悪性の腫瘍」が鼻の中にできているということでした。
「すぐに頭を開ける手術が必要だ」
そう言われましたが、私も主人も理解が追いつかず、しかも異国の地で頭を開ける大手術をするなんて考えられず、緊急で帰国することにしました。
日本の病院で、再度検査を受け、「何かの間違いであってくれ」と願ったのも虚しく、結果は変わらず「悪性」でした。
私は、「また子供がこんなに小さいのに」「私一人でどうやって生活していくの?」と、主人の心配よりも自分と子供のことばかり考えていたんです。ひどい嫁ですね。
なんとか、気持ちを落ち着かせて生活をしなくてはいけない。
子育ても、ちゃんとやらなきゃいけない。
そんな極限の状態だった私でしたが、周りは理解を示してはくれませんでした。
「世の中、シングルマザーなんていくらでもいるだろ」
「え、まだ泣いてるの?」
「気持ちなんて理解できんわ、癌になったことないもん」
「お前の家族のことなんかどうでもいいわ」
「泣くのやめて?」
他人から言われた言葉ではありません。
全て、身内から投げられた言葉です。
主人の病気は、治療をしても再発してというのを何度も何度も繰り返し、長く闘病生活は続きました。
だんだん、私も心が弱まり、大声で怒鳴ったり、物を投げたり、自分がどんどん壊れていく感じがしていたのを感覚として覚えています。
「このままだと、主人にも子供にも悪い影響しかない」
そんな時、長年の闘病生活を知った友人が、サプライズでお菓子をたくさん送ってくれたことがあったんです。
「私も何かできることはないか考えてしまって、自己満かもしれないけど、送らせてもらいました。」
「だり(あだ名)の思うように、毎日生きていってください。無理しても無理しなくてもいいから。」
そんなメッセージが添えられていました。
泣きましたよね。
血の繋がりがなくても、こんなに私たちのことを考えてくれている人がいる。
それだけで、頑張れる気がしました。彼女がいたから、私は、前を向けています。
そして、薬剤師として復帰した頃、子育てに悩んでいるママたちが本当に多いことに気づいたんです。
「私の辛い経験や子育ての経験が、何か役に立たないだろうか?」
その思いで、子育て相談を受けるようになりました。
今、私の言葉で、子育てやコミュニケーションについてお話しする機会を、少しずついただけています。
そして、「育てるを楽しむ」を中心に、子供を育てること、人間関係を育てること、人とのつながりを育てることが、人の笑顔につながると信じて、そのお手伝いをしていきたいと思っています。
